張政(ちょうせい)は、帯方郡(たいほうぐん)の武官である。

気質は真面目で、鍛錬と勉学を日課とし、武才に秀でているわけではないが、彼は兵学に通じた。国境の警護に従事し、周辺で紛擾(ふんじょう)があればこれを鎮めた。目立った戦や武功はあげたことがなく、且つ阿諛追従を良しとしなかったため、彼の地位は決して高くなく、既に初老を迎えていた。日々の生活に不満もないが、希望もなく、彼の心には常に空虚が在った。
張政は、邪馬台国(やまとこく)と狗奴国(くなこく)の戦を治めるため、塞曹掾史(さいそうえんし)として倭国に到った。
張政の働きは幸をそうし、戦は以前ほど激しさは無くなり収まりを見せていた。張政は一人戦場から離れ、邪馬台国の女王・日霊女(ひみこ)に拝謁するため、女王の宮室を目前にしていた。塞曹掾史(さいそうえんし)の他に、張政はもう一つ為事を抱えていた。

一月ほど前のことである。
帯方郡に居た張政は王頎(おうき)に呼び出された。
王頎は、今年に入って太守に就いた、張政の上官である。張政より十は年下で、才覚ある青年であるが、老いに関しては人一倍に嫌悪し、不老の法を模索していた。結果、彼の関心は、辺境の地の呪いや伝説に傾倒するまでになった。とりわけ、倭国への関心は尋常ではなく、先日、女王の遣いが援軍を求めに来た時は、自らもてなし、およそ本来の目的とは関係ない事にまで目を輝かせて話を聞いていた程である。
王頎は張政に、
「長生不老の霊薬が倭国に在るかも知れぬ。彼の地へ渡ったら、女王に会い、その真偽を聞き出してほしい。」
と命じた。
『史記』に云う、方士・徐福が霊薬を求め旅立ち、辿り着いた平原広沢が、女王国の礎かもしれぬと、王頎は語った。
倭人が長寿で、女王は鬼道を使うという伝聞を、王頎は聞いていた。鬼道は、中華から見た邪教の事を指すが、一説には原始道教の事と云う。
「徐福は霊薬を得て、王となって治めた平原広沢が今の倭国なのではないか。だとしたら、女王は秘術を知っているに違いないのだ。」
と、王頎は熱弁した。根拠のない想察に張政は頭を抱えたが、上官の命を拒むことは出来ず、いた仕方なくこれを引き受けた。

張政は証書と黄幡を携え、倭国へ渡った。通常、魏使は伊都国(いとこく)で責務を全うし、日霊女に会う事はない。面会自体が困難であり張政は案じていたが、その思いとは裏腹に、日霊女自ら対面を望まれた。

宮室の階段を昇り、御簾を前にし、張政は一度咳払いをした。
「日霊女様。張政、参りました。」
「どうぞ。」
柔らかな声が中から聞こえた。
張政が御簾をあげ中に入ると、日霊女はこちらを見、優しく微笑んだ。齢七十程の老女であるが、背筋は真っ直ぐ立ち、白く長い髪は絹糸のように滑らかで、老いても気品を損なわず、彼女が纏う空気は、山の奥深い、陽光に輝く泉の水面の如く、明るく穏やかであった。
「お待ちしておりましたよ。」
「は…日霊女様自らお会いしていただき、深く感謝しております。」
「感謝を申し上げるのはこちらの方です。遠いところからお越しいただき、戦ではお力添えを賜り、誠に有難うございます。」
日霊女は深く頭を下げて言った。
「は。滅相もございません。」
日霊女の女王らしからぬ低い物腰に、張政は自分が緊張をしていることが滑稽に思えた。
刹那、日霊女が背にしている壁の図案が張政の眼に映った。張政は目を見張った。円の中に、二つの勾玉を組み合わせたような意匠であった。道教の象徴たる太極である。呪術に無関心な張政でも、これが倭国に元来在る物ではない事は理解できた。対極を囲むように描かれた図案は、八卦のようにも見えるが、彼の地の思想の表れか、張政が大陸で見た物とは異なっていた。
「これは…」
張政は言葉をこぼした。
それを聞いた日霊女は後ろを振り返り、当然の事のような口ぶりで、淡々と答えた。
「ご存知ありますか?太極です。私が行う占術には、漢土(からくに)の道(タオ)を取り入れているのですよ。」
張政はたどたどしく口元をゆるめた。
「いや…、意外でした。ですが、倭国には倭国の神や呪術があったのでは?」
「勿論あります。しかし、道を用いたほうが、的確に占う事が出来たのです。とはいえ、漢土の神とこちらが元々信じてきた神は違うため、時間をかけて倭国の風土に合った様相になったようですね。」
「なるほど…」
日霊女は、呆然と壁を見る張政に感興を覚えた。
「余程これが気になるようですが、もしや私に聞きたい事と何か関係があるのですか?」
日霊女は首を傾けて張政に尋ねた。
張政は一瞬息をのんだが、ここで言わねばならぬと腹を据え、大きく息を吐いて、日霊女に問うた。
「は…。実は、長生不老の霊薬について、何かご存知ありませぬか。」
「長生不老の霊薬?」
日霊女は目を丸くした。
「はい。帯方太守は、訳あって霊薬を求めておられます。倭国にそれがあるのではないかと推測し、私に調べるよう命じられたのです。」
張政が真率な表情で述べていると、日霊女はふっと息を吐くように笑った。
「何か、可笑しな事でも?」
張政は首をかしげた。
「なるほど。ナシメとツシグリが、太守殿から随分倭国の事を尋ねられて少し気味が悪かったと言っておりましたが、そういう事でしたか。」
日霊女は小さく肩を揺らして笑った。
「ご存知でしたか…。」
張政は額に手を当て、羞恥を隠覆するように、愚痴をこぼした。
「我が国には、昔、方士が童男童女と技師を引き連れ、霊薬を求めて東方を目指したという言い伝えがございます。太守は確たる根拠もなく信じ、その様なあやふやな物を探せと私に申すのです。他は優れたお人であるのに、玉に瑕で…」
ふぅっと息を挟んだ時、日霊女が厳かに言った。
「ありますよ。」
「え?」
張政は耳を疑った。
「只、張政殿が想像していものとは大分違うものですが。」
「で、では、まさか倭人が長寿というのも…。」
「それは天つ神の御恵みによって、民が健やかに暮らしているだけの事。私も同じです。何も特別な事はしておりませんよ。」
日霊女が言う物が何を指しているのか、張政には読めなかった。
「では…どういう意味です?」
「私が存じ上げているのは、老いずに生き続ける薬ではなく、死後も自我を保ち、生者と意思の疎通を図る秘術です。」
『死後?』
張政は心中愕然とした。
確かにそれは、張政が思い描いたものとは異なる。太守王頎が求めているのは飽くまで不老であり、老いて、死ぬのであれば意味はない。しかし、それよりも衝撃だったのは、日霊女が正しければ、死んでしまえば何も残らないと考えいた張政にとって、それを否定する事実である。
不老の霊薬は無い。それでも、張政は頭を深く下げた。その術を使いたいという欲求ではない。張政を突き動かしたのは、死に先があるのなら知りたい、という清純な好奇心と、日霊女に対する尊敬の念であった。
「どうかその術を教えてはいただけませぬか。無論、ただとは申しません。日霊女様がお望みとあれば、何でも致します。」
日霊女は少し思案した後、静かに相槌を打った。
「そうですね。私は張政殿を信じております。これを悪用することもないでしょう。ただし、二つ条件があります。」
「それは、どのような?」
「一つは、これから申し上げる私の頼みを引き受けて下さる事。もう一つは、この術は、張政殿が正しいと信じる人だけに、伝えてください。」
「正しいと、信じる…」
張政は目を上に向け、小さくつぶやいた。
「そうです。私は張政殿を信じてお教えしますが、お会いした事のない太守殿には、残念ですが、信じるに値するか分かりかねます。ですからその判断は、張政殿に委ねる事にします。約束していただけますか?」
「畏まりました。お約束いたします。」
そう、返事すると同時に、張政は自ら肝に銘じた。
「では、私の頼みですが…」
日霊女はそう言うと、真摯な眼差しを張政に向けた。
彼女の顔から笑みが消えたのを張政は感じ、違和感を覚えた。
日霊女は言った。
「私の命は…間もなく絶えます。」
張政は言葉を失った。
「占いでその様に出ましたが、何よりも自分でもわかるのです。何が起こるのか、私が予見している事をお話します。」
日霊女が言うには、死後、彼女の弟が王に立てられる。だが弟は気が弱く、占いも、時折月や星の動き読み、彼女の補佐をする程度で、為政者の素質はない。実際には、軍を指揮するナシメが権力を振るうことになり、倭国内に再び混乱が起こる。
彼女の頼みは、その時、密かに彼女の宝である鏡と、張政が携えてきた黄幡を持ち、真の後継者の元に行き、その身を守ってほしい、という事だった。
「その者は、どこにおられるのですか?名は、なんというのです?」
日霊女は答えた。
「投馬国の宇佐に行ってください。台与という少女に会うでしょう。彼女こそ、弟の孫娘で、私の後を継ぐ者です。」
「台与様…」
張政は、日霊女の言葉を一言一句漏らさず、焼きつけるように心に留めた。
「張政、しかと承りました。必ず、お約束を果たします。」
そう言って、左手で胸を押さえ、深く腰を屈めた。
だが、彼にはまだ疑問が残っていた。
死後も自我を保つ術が本当であれば、なぜ今生きている日霊女がそれを知っているのか。彼女が背中を向けている壁に描かれた太極や、占術に取り入れている道は、誰が伝えたものなのか。
張政は、顔を日霊女に向けて尋ねた。
「日霊女様、お尋ねしてもよろしいでしょうか。」
「なんでしょうか。」
「道を用いた占術や、死後も自我を保つ術…日霊女様は一体どなたからこれらを授かったのですか。」
日霊女は、顔をほころばせて言った。
「あなたが先ほどおっしゃっていた、霊薬を求め、東方を目指した方士です。」
「真逆…」
「そう、徐福様です。」
日霊女は続けた。
「数百年前のことです。徐福様は、童男童女と技師と共に、筑紫潟からこの地にムラを作り、暮らしはじめました。はじめは、土着の者たちとぶつかる事もありましたが、徐福様達は大陸の技術や文化、色々な事を伝えてくれました。占術もその一つです。次第に交流を深めて、ムラはクニと呼べるほどまで大きくなりました。皆が徐福様を敬い、王となられ、この国の基礎を築かれたのです。」
動揺に言葉を詰まらせたながら、張政は日霊女に問うた。
「では、霊薬はどうされたのですか?」
「はじめは、霊薬を求めておられました。しかし、不老不死では自然の理に外れてしまうと悟られたのです。ですが、死後も己を磨くため、また自分の意思を誰かに伝えるために体得されたのが、この死後も自我を保つ術でした。」
雷に打たれたかのような衝撃であった。虚実妄想に過ぎぬと軽んじていた王頎の推察は、確かな事実だったのである。
「この国は、徐福様が遺された遺産です。私の誇りです。台与にはまだ、背負いきれないものかもしれません。しかし、彼女もいずれ、私達の遺志をしっかりと継いでくれます。ですから、どうか張政殿にはそれまで台与とこの国を守っていただきたいのです。」
日霊女はそう、張政に告げた。
張政の心に、日霊女の言葉は深く響いた。張政には、日霊女がとても大きく、温かな存在に感じた。これ程までに、民を、国を思い、自分を深く信じてくれる人がいるのか。張政は感銘を受け、ふと、頬を涙で濡らしている事に気づいた。
張政は言った。
「何故、この国の者でなく、私に託されるのですか。」
日霊女は、なだめるように答えた。彼女の視線は張政ではなく彼の後ろを見つめていた。
「それは、張政殿の背で、徐福様が微笑んでいらっしゃるからです。」
一瞬、張政は背後に確かに人の気配を感じた。はっと振り返ったが、そこには誰も立ってはいなかった。
日霊女は軽く膝を叩き、静かに立ち上がった。
「さぁ、こちらへいらしてください。張政殿には術を教えなければなりません。」
日霊女は奥の間に張政を通し、戸を閉めた。暫く宮室からは音が消え、静寂が流れた。

日が西の山に沈む頃、張政は外へ出て、日霊女の宮室に向かって一度会釈をした。張政は今までになく、充実感を覚えていた。深く息をした後、その顔には決意の色が表れた。張政は宮室に背を向け、腕には大きな包みを抱えて、何処へと去っていった。
この日を境に、邪馬台国で彼の姿を見た者はいない。
年が明け、間もなく日霊女は逝去し、彼女が予言していた通り、倭国内で争いが起こった。
それから数十年の後、魏が滅び、西晋となった帯方郡に、久しく倭国の使者が見えた。
倭人の使者が言うには、今の女王の名は台与と云う。そして使者の中には、老齢となった張政の姿があった。